震災復興業務に係る手記

貴重な経験に感謝

岐阜県可児市

只腰 篤樹さん

 復興完了のお知らせを頂戴し、心からお慶び申し上げます。長きに亘りご尽力された多賀城市職員の皆様はじめ、復旧復興に携わられた多くの皆さんのご努力に、ただただ頭が下がります。本当にお疲れさまでした。

 私が復旧支援に就いたのはH24.10~H25.3の半年間です。下水道課で復旧工事や、通常の下水道業務のお手伝いを担当させていただきました。あれから8年も経つんですね。振り返れば月日は早いものです。

 着任時、震災後1年半が経過し、災害復旧が関東以北で本格的に始まった頃でした。着任早々に被災地各地を案内いただき、自然災害の凄まじさを目の当たりにしました。先の平成7年に発生した阪神淡路大震災の復旧支援に兵庫県に伺った際には、現地職員の皆さんがとても疲へいされており、心が痛んだ記憶がありました。東日本大地震では、揺れに加え津波の被害が甚大であったため、市職員の皆さんはさぞかし心身ともに疲れ果てているかと思いましたが、とても明るく丁重にお迎えくださるなど、正直驚きました。

 当時は、建設資材や人材不足により現場進捗もままならない状況で、工事や委託発注をしても受注されない入札不落が常態化していましたね。資材が高騰していましたから、適正な工事価格には程遠い状況だったのでしょう。そのような中、地元企業の皆さんが一日も早い復旧を目指し奮闘努力しながら日々の工事にあたっておられたのがとても印象的です。

 通常であれば1週間程度の工程が1か月以上もかかるということは頻繁でした。現場管理だけの日々がいたずらに続き、もどかしさと無力さを痛感しました。また工事精算額が現状に見合った額にならず、申し訳なく思ったものです。現場監督さんが投げやりになることなくご理解くださったことが救いでした。

 このような大災害が自分の地元で発生したら、果たして多賀城市の皆さんのような行動ができるだろうか。とても自信はありません。派遣終了間際に、お世話になった現場監督さんが、「岐阜で大災害が起きたら駆け付けますよ」と言っていただけたことがとても嬉しかったです。

 ただ、言葉の違いにはちょっと困りましたね。着任当時、岐阜県民からすれば、関東以北は全て同じ東北弁としか聞き取れず、意味がわからないこともありました。でも、それはお互いさまで、私が丁寧に話しているつもりでも意味が通じていないことはしばしばあるようでした。岐阜は名古屋弁に近いのですが、関西弁に聞こえるって地元の方に言われた時には苦笑いしました。

 その地元の方々もとても優しく、私が派遣に来ていると知ると怒りを抑えてくれる方も見えたかと思います。しかし、そのような中でも工事対応のことで電話や現場でお叱りを受けることもありましたが、早口で地元の言葉で話されると、怒っておられることだけは十分わかるのですが、内容はちんぷんかんぷんでした。(不快な思いをされた方、本当にごめんなさい)

 派遣期間を終え、帰路に着いた際には、半年も居たのに大した力にもなれなかったとこと申し訳ない気持ちで帰ってきました。

 当時、災害に備えるために皆さんから教えて頂いたことがいっぱいあったのですが、『車の燃料タンク半分になったら満タン!』これだけは今でも続けています。

 生涯忘れることのないあの半年間の貴重な経験と、全国の多くの方々と知り合えたことに感謝感謝です。

 いまだに大きな余震が発生していますが、くれぐれもお気を付けください。そして、多賀城市の今後益々のご発展と、知り合った多くの方々のご健勝を心よりご祈念申し上げます。