震災復興業務に係る手記

多賀城市の復興に携わって

神奈川県大和市

阿部 秀一さん

 私は、平成 23 年 6 月に石巻市へ東日本大震災の応援職員として約 1 か月従事しましたが、テレビや新聞報道で見聞きした以上に東北 3 県の被害があまりにも甚大であったため、派遣元に戻り業務に従事しながらも、東北出身の郷愁もあり、もっと何かできないかという想いが、ずっと心にありました。そんな中、平成 29 年度に、災害公営住宅に関する運営や、コミュニティ形成支援に従事させていただく機会をいただき、未経験ながら志願しました。

 最初は、決定的に自分の知識が不足していたことにより、インフラの復興ばかりに目が行き、復興は進んでいると勘違いをしていました。「そこで人が安心して暮らせるようになってこそ、復興だ」と気がつくまで、地域の方々とお話をしていても、どこか言葉が届かず、空回りをしていたように思います。

 そんな私に、優しく付き合ってくれた多賀城市の上司、先輩職員の方々、そして、今まで経験したことがないほど、熱く議論を交わした同僚達のおかげで、そこに生きる人の顔が見え、徐々に被災された方々の状況がわかってきたように思います。「やっとわかってもらえたか。建物とか、計画よりも、そこで暮らす人の暮らしなんだよ」と被災された方から声をかけてもらえた時が、私にとっての本当の仕事始めだったように思います。

 市域が狭い多賀城市は、河川防波堤により、浸水による被害は 3 割に留まったものの、市域の半分に被害があり、現地再建が必須であったため、区画整理と集合住宅方式によらねばならず、同エリアでありながら、人により被災状況と支援の格差が混在する、特殊で、やや難しい地域だったと思います。さまざまな立場の意見をまとめ、復興計画を作成すること、それを実行することには、たくさんの苦労があったように思います。

 それでも、「建設・整備」の技術者の方々の頑張りにより復旧期は驚くほどの早さで進み、その出来上がったインフラで、人々の「新しい、安心できる暮らし」をつくっていく大事な再生期の終盤に携わらせていただいたことは、事務職として、行政に携わるものとして、得難い経験をさせていただきました。

 「そこで暮らす人」と話合い、前例や国の指針もないことに対し、今まで先輩方が試行錯誤して、やってきた業務を、終期にむけて協議・調整し、その地域ごとに答えを模索する毎日は、私にとって学ばせていただくことばかりでした。多賀城市での取り組みは、その後に続く、私の別の派遣地での業務でも、その経験は大いに活き、その地でも、復興に力を発揮したことを申し添えます。

 改めて振り返ると、多賀城市は、派遣職員の受け入れ態勢が整っていたこと、職員の一人一人が優しく接してくださったことで、当初の心配を忘れてしまう位、自然と職員の方々と溶け込めたことには驚きました。また未熟な私の意見もしっかりと聞いてくださり、お客さんではなく、同志として、活躍の場を与えてくださったからこそ、安心して、全力投球できたように思います。

 そして、縦割りと言われる行政には珍しく、関係課を集めた連絡会議を定期的に開催し、行政の取り組みを多角的に関係者の皆が共有し、昼夜、惜しみなく働く職員の方々がいたことが強みだとも感じました。 

 そして、何より、「お世話様です」という言葉で、始まるコミュニケーションは、どんな難しい要望や苦情対応の場合でも、どこか和やかさがあり、人のつながりというものを意識させてくれる風土だったこと、今も懐かしく思い出します。

 私が多賀城市で過ごした期間は 1 年で、どれだけのお手伝いができたか自信がありませんが、私のこれまでの人生の中で最も濃密で忘れることのできない貴重な経験をさせていただいた期間だった事には間違いありません。市長はじめ市職員の皆様、多賀城市の皆様、本当にありがとうございました。

 そして、震災を乗り越えて、「これまで以上に安心して、賑わいのあるまち」をつくる発展期を迎えた多賀城市が、どんな成長を遂げていくのか、これからも楽しみに見守ると共に、いつかまた帰りたいと思える第二の故郷を、これからも応援していきたいと思います。