震災復興業務に係る手記

多賀城市に派遣された2年間について

三重県伊賀市

丸山 拓也さん

 震災派遣で2年間多賀城市の固定資産税に派遣されましたが、その前年6月には、避難所支援で2週間山王にも行っていました。

 避難所支援の頃にはまだ空き地にはゴミが積まれており、自衛隊のお風呂もあった時期で、山王の近辺でも埃っぽいな、という印象があり、まさかその9か月後には再度多賀城市に派遣されるとは思ってもいませんでした。

 固定資産税へ派遣された頃には、避難所支援に来た時から短期間の間に街の雰囲気も変わって、埃っぽい印象などは感じなくなっていました。

 また多賀城市は主要幹線を含めた震災ゴミの片付けなどが早かったのも相まってか、内陸部への新築ラッシュがあり、多賀城市での通常の家屋評価の2~3倍のペースで建築があり、その評価や、震災に伴い遅れていた土地にかかる評価変更の作業なども重なって、連日の残業業務で、今後も破られることのないであろう一番残業をした時期でもありましたし、そして仕事終わりの飲ミニケーションも、人生最高の回数で、沢山参加したにも関わらず、毎回楽しく、笑いに満ちた場であったことしか思い出せません。

 そんな私が派遣された職場についてですが、派遣職員と言えば道路や水道、下水といった技術系の方が全国から来ており、そういった部署では派遣の職員と多賀城市の職員が半々位といった状態もあったかと思います。しかし固定資産税への派遣は一人で、しかも固定資産税のあった1階のフロアー全体でも一人ということもあり、多賀城市の職員に囲まれて、ぽつんと1人という特殊な状況でもありました。

 当然最初は、そんな状況なのでどう扱っていいのやら、という感じもあったかと思いますが、仕事も協力してしなければならず、その為コミュニケーションを頻繁に取ります。

 実際多賀城市で勤務していて思ったのは、東北の人の喋る訛りという先入観を打ち破り、訛り具合でいうなら、よほど私の方が上だったということです。そんな全く違う環境から来て、しかも関西弁で喋り続けるけったいな自分でしたが、職場の皆さんが温かく接してくれたおかげで、派遣の終わる頃には個人的感想ですが、派遣の職員ではなく多賀城市の職員だったような、そんなずうずうしい雰囲気を醸し出してしまっていた所があったかと思います。

 しかし、そのような気持ちになれたのは職場の方々だけでなく、当時上司だった本間さんや職場以外の方々にも余所者であるがゆえに、何かと扱いづらい所もあったにも関わらず何かと気を使って貰っていたのだと、今この機会に改めて思い返し感謝の念が一杯です。

 また上で触れましたように変わることのない関西弁での喋りスタイルは、周りの方に少なからずの言語的悪影響を及ぼしてしまったのではないかと思うとともに、関西弁と言っても色々とあることなど知ってもらえるきっかけになったのでは、と思っております。

 最後に、地方公務員をしていて、県を超えた別の市役所で仕事ができる経験は普通出来ることではなく、とても良い経験をさせて貰いました。

 そして多賀城市役所での2年間は、震災での派遣と言う事実はありますが、10年経過してこうやって手記を書いているこの時でさえ、とても楽しかった、という事ばかりが思い出され、懐かしくもあり、そして少し淋しくもなりました。