東日本大震災の記録 page 105/178
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東日本大震災の記録
105第6章いのちをあたためて保護者に引き渡せなかった児童はもちろんだが、学校外から避難してきた方々も時間とともに増え、その数は300名を超えた。それらの方々をどの場所(教室)に入れるか、必要な物品は何か、職員は手探りの状態の中ではあったが、校長の指示のもと、手分けして行った。新学期を迎えて6年平塚涼太ぼくは、学年末に震災を体験しました。すごいゆれの地震で、今までに感じたことのない地震でした。その後、津波がきました。ラジオを聞いていたら、仙台空港がしん水したと聞いて、みんなで八幡小学校に走って逃げました。逃げる途中に後ろから黒い津波が来て、すごく怖くて急いで逃げました。学校に着くと、先生たちが三階に誘導してくれました。次の日、水が引いてなくて、家に着くことができませんでした。二日目の日に家に行くことができました。ぼくの家は、平屋なので家の全部がしん水していました。庭には海から流されてきたものや車が重なっていました。家の中はドロだらけでいろんな物が倒れていました。地震の時、津波がぼくの家までくるとは思いもしませんでした。津波は何でも飲み込んでしまっておそろしいものだと感じました。今、ぼくは山王公民館で避難生活をしています。場所は四回変わりとても大変でした。でも、ボランティアの人たち、奈良からのお医者さん、沖縄の自衛隊、神奈川の床屋さんなど、たくさんの人が助けに来てくれました。とてもうれしくて「がんばろう」と思いました。最高学年になって、低学年のお世話をがんばります。そして六年生の修学旅行が楽しみです。最後に、計画委員としてみんながわかるような計画を立てられるようにがんばります。震災発生から約1ヶ月間体育館での避難所対応を(3学年主任・防災主任)教諭阿部光伸2011年3月日。5時間授業11だったその日は、子供たちを普段より早く下校させました。校舎4階にある教室には、私と数人の子供がいました。突然、緊急地震速報が鳴り響きました。それもつかの間、あの大きな揺れが襲ってきました。時分、「東日本大震災」の発生1446でした。またたくまに、棚にある物や児童のロッカーの中にあるものは落下。大きくひらいた観音扉の本棚からは、全ての本が飛び出してきました。強い揺れで私は立つこともできず、四つんばいになりながら「机にもぐりなさい。」と、子供たちに大きな声で叫びました。しかし揺れは収まるどころか、さらに激しさを増し、教室廊下側の窓が、教室の机の下にいる児童を目がけ容赦なく次々と落ちてきました。そして、教室の教卓や教師用の机が、揺れの振幅に合わせて大きな円をえがきながら前後左右に動き、私達に突進してきました。3分以上も続いた揺れはようやく収まり、机の下にいた子供たちを並べ、同じ階にいた女性教諭の先導のもと校庭に避難させました。私は、余震の中、取り残されている子供たちの検索にあたりました。あらゆる物が散乱して重なり合い、どこもかしこもこれまでと変貌した惨状でした。校庭に向かうと、校舎近くや昇降口で地震に遭遇した子供も避難してきていました。雪が降りしきる中、保護者への引き渡しが始まりました。途中で、東豊中学校の校庭への避難指示が出され、子供たちを誘導しました。そこに大津波襲来の情報が入り、再度、多賀城東小学校に移動しました。その後は、残った子供たちを東豊中学校の体育館に一時移し、再指示をまって、真っ暗な冷え込む本校舎の図工室で、職員並びに子供たち約70人と一夜を過ごしました。夜に発生した石油精製所の爆発は、空を炎で赤く染め、その光景は、地獄絵図のように私達の目に映りました。それから約一ヶ月間、体育館での避難所対応にあたり、学校再開までの日々を送りました。多賀城東小学校