東日本大震災の記録 page 107/178
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東日本大震災の記録
107第6章いのちをあたためて中で地震の片づけをしていました。その結果逃げ遅れ、途中で津波にあいました。4人で3台の車の上に立ち、足が浸ったまま、何時間も助けを待ちました。私と妹は夜の時頃11自衛隊に助けられましたが、母や祖母とは離れてしまいました。それから2、3日祖母や両親と会うことはできませんでした。だから、両親と再会したときは泣きました。父の泣くところも初めて見ました。しかし、祖母と会えたのは遺体安置所でした。水を飲んでしまったらしく、顔がパンパンでした。家が150 cmほど浸水したため、私たち家族は文化センターで避難所生活を始めました。落ち着かない生活の中、気休めになったのはボランティア活動です。きっかけはクラスの友達が館内ボランティアという、配食等の手伝いをやっていたことです。最初は何千人分もの食事の準備など気の遠くなる作業ばかりでしたが、ボランティアメンバーも少しずつ増え、仕事の要領もよくなっていきました。メンバーには私のように家が浸水したり流された方もいました。学校では存在も知らなかった先輩もいました。私たちはどんどん打ち解けていきました。震災がなければ出会うこともなかったと思うと、不思議です。仕事もだんだんと自分たちでアイディアを出すようになりました。市や県から来た情報をはりだす「情報掲示板」。大学の先生から「小さな子供たちが本を読んだり、折り紙をしたりできるスペースがあるといい」と聞いて開設した「こどもランド」。サッカー選手が来ると聞いて、サッカー教室を行ったり、フリーマーケットを行ったこともあります。やっているうちに、私はボランティアが楽しくなってきました。メンバーや催しに参加してくれた多くの人と仲良くなれたからです。私が炊き出しに並んでいたとき、前にいた人から「ずっとここに避難しているの」と話しかけられ、親しくなったことがあります。名前を知らなくても話すことができると、温かい気持ちになります。それに「お疲れ様」や「ありがとう」と言っていただくと、ボランティアをしてよかったなとやりがいを感じます。私は言葉の大切さや温かさ、人とつながることの大切さを感じました。4月中旬、高校生の学校が始まり、ボランティアに来られなくなるため、メンバーで花見をしました。寄せ書きを渡すと、みんな泣いてしまいました。苦しい時を一緒に過ごすうちに、大切な仲間になっていたのです。私は、震災で祖母という大きな存在をなくしたり、大切なピアノがこわれたため習うのをやめたりとつらいこともありましたが、よかったこともたくさんあります。ボランティアをしている間はつらいことを忘れることもできたし、頑張ろうという張り合いにもなりました。普通の生活をできることの幸せに気付くこともできました。震災を通して精神的にも大きくなれたと思います。今では私は避難所を出て暮らしていますが、たまに避難所へ行ってボランティアの手伝いをします。学習室もできて、土日には教育ボランティアの大学生の方々が教えてくれます。その中にいると私はとても温かい気持ちになります。私はボランティアをやって本当によかったと思います。これからも、震災が残してくれた言葉や人とのつながりを大切にする気持ちを忘れません。そして、一人でも多くの人が前の生活に戻れるように、私のできることをしていきたいと思います。避難所(体育館)での対応及び運営取組学校(体育館)が避難所として開設したのは被災3日後の3月日か14らであった。避難所の運営にあたっては市職員の代表を運営責任者とし主体的に運営してもらい指示系統を一つにした。学校は時間体制で運営責任者24の指示のもと、補助的な立場で避難者の名簿作成、救護、物資搬入手伝い・配布、健康管理等を主な業務として行った。また、避難所の運営にあたっては生徒の自主的なボランティア活動が生まれ、名近い生徒が避難所が閉50鎖になるまで、給水支援、トイレ環境整備、物資運搬、食事支援等を意欲的・継続的に行った。その献身的な活動に深く感銘を受けた。学校再開に向けて4月9日まで体育館が避難所となっていたが、4月7日の余震の影響で使用不可となり避難所を閉鎖したことで、学校再開に向けた準備が加速していった。第回入学式校長式辞今36日はあの大震災から日経ちま40した。本校は、校舎の耐震工事が1月に終了していたおかげで、本校舎での授業は支障がありません。すでに私たちの周りでは未来に向けた復旧・復興への動きが始まっております。学校もまた同じように、第二中学校