東日本大震災の記録 page 149/178
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東日本大震災の記録
149資料編歴史的な大災害の被災経験は、津波の恐ろしさや「逃げる」意識が命を救うこと等、多くの教訓を残すこととなりました。こうした、震災が残した多くの教訓を決して風化させず後世に語り継いでいくために、「東日本大震災ふりかえり」により市民の皆様から寄せられた震災の記憶の一部を御紹介します。1震災後の状況や行動?地震発生・津波の恐ろしさ●地震後、仙台港方面に勤務している娘を迎えに行った帰路で、マンホールから水が噴き出しており、イオンに向かうも渋滞。「津波だ」の声に振り向いたら、波が見えた。車の上に登り難を逃れるも、まさに地獄のような光景が広がっていた。(桜木)●震災当日夜中の2時になっても道に多くの人が歩いていた。どこに行ったらいいかわからない人ばかりだった。(伝上山)●震災時は妻の手術日で大学病院にいた。地震が来る1分前に手術が終わったのは、不幸中の幸いだったと思う。6時くらいに大学病院から帰宅したが、利府街道を通ってきたため津波があったことに気付かなかった。車のテレビで津波のことを報道していたが、まさか多賀城まで来ているとは思わなかった。妻はその後も病院にいたが、病院には食料がなく、1日でパンを1/4くらい食べたくらいで大変だったと聞いた。(高崎)●地震発生後、車で避難する人が多く、地域内の道路は大渋滞であった。特に避難所となった天真小学校付近や笠神新橋付近で渋滞していた。仙塩病院の患者さんは、医師や看護士に誘導されながら笠神新橋を渡っていた。背負われて避難していた患者もいた。(鶴ヶ谷)●地震発生直後から「みまもり隊」の活動を実施した。地震発生時は、ちょうど天真小学校低学年の下校時間だったので、小学校内に引き返すよう誘導した。桜木地区に帰る小学生が津波の被害に遭うことなく安心した事を覚えている。(鶴ヶ谷)●地震発生直後、砂押川の堤防に無数の亀裂が入り、川の水が町内に溢れ出るのではないかと心配になった。(鶴ヶ谷)●何度も押し寄せる津波によって、橋が壊れ・崩れるのではないかと心配になった。その橋の上を多くの人が往来していた。(鶴ヶ谷)●地域の中全体がパニックになっていた、それを見てつられて自身もパニックになってしまった。(鶴ヶ谷)●材木、丸太が山のように流れてきた。ガスボンベも流れてきた。流れてきた材木につかまって、手で材木を漕ぎながら水の中を避難した人がいた。(桜木)●外出中に地震があり、慌てて防災グッズを取りに帰宅。手が震えて鍵が開けられず、家に入るのを諦めて避難したため、結果的に助かった(桜木)●一度避難したが、忘れ物を取りに帰宅して亡くなった方がいる。声掛けで救える命だったのに残念。(桜木)●自分の息子夫婦と孫が閖上に住んでいた。連絡もとれず、ニュースでは甚大な被害が報じられ、生死が分からず途方に暮れた。「生きていれば必ず連絡は来る」と自分にけじめをつけ、地域のことを頑張った。(大代)●夫が下半身バルーンで、世話に慣れていないため布団から車いすに移すのにどうすればいいかわからなかった。地震で家中の物が散乱していたので車椅子の移動も大変だったが、近所の人に手助けしてもらいながら外に出た。生協から取り寄せていた食材3日分を車に積んでミラックマツヤ方面に向かった。(桜木)●市民プールで地震に遭った。水面の波打ちがすごかった。帰宅する途中に「すごい地震だったね」と話した方は、その分15後に津波に巻き込まれて亡くなった。咆哮のような音に驚き、外を見たら波頭が見え、「もうだめだ」と思った。2階に退避し、外を見たら生き地獄だった。(桜木)●発災直後は自宅にいた。揺れたときに津波の襲来を直感したが、停電により情報はゼロ。常備していた懐中電灯付きラジオの存在も忘れるくらい動揺していた。夜には雷のような音とともにJXで火災発生。その後自衛隊から救助されることになったが、自衛隊ではトイレも使え、水・毛布・暖房など、恵まれた環境だった。自衛隊から東豊中に移ったのは3~4日後。(大代)●マンション6階に住んでいる。揺れが大きすぎて外に出てしまった。結果、家の方が安全だった。マンションの耐久性を知らなかった。(八幡)●自宅の2階でじっとしていれば助かったのに、「逃げろ」という声を聞き続けた結果、津波が来る直前に逃げ始めて亡くなった方がいた。どこからでも一定時間で逃げられる場所が必要であるとともに、経過時間とともに避難指示の内容も変える必要がある(桜木)●家族と連絡が取れない不安な状態のなかで、区長としての仕事に追われたことが辛かった。(八幡)●「助けてー」という声、でも助けられない。その声が今も耳に残っている。(八幡)●グループホームに勤めており、震災があった日は社用で仙台方面にいた。外出先(六郷あたり)で地震。入居者18名が気がかりですぐ戻ったが、戻る途中で、マンホールが突き上がるなど既に道路の状態が様変わりしていた。多賀城に着き、何か状況がおかしいと感じていた矢先、栄で津波に流されてしまった。何とか救助され、栄の民家で一晩過ごさせてもらった。地震の翌日、ようやくホームに戻ると、建物も無事で、入居者に怪我人もなく安心した。そこで初めて自分の足が傷だら語り継ぎたい、震災の記憶語り継ぎたい、震災の記語り継ぎたい、震災の記憶語り継ぎたい、震災の記憶