東日本大震災の記録 page 155/178
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東日本大震災の記録
155資料編●要援護者宅に民生委員として自宅でご飯を炊いて、水とおかずなどを毎日渡して歩いた。(すべて民生委員の方の個人負担で。)(新田)●避難弱者を助けられなかったことへの悲痛感。震災うつや生活不活発病に対する対応の不足。(高橋)●災害弱者とのかかわり方に悩む。個人情報の取り扱いと、どこまで立ち入ってよいのか、予め市との話し合いが必要。(新田中)●区長と民生委員は災害時要援護者のリストをもらっているが、そのような個人だけでは正直言って無理。今回はたまたま無事だったものの、区長の判断では助けることも助けさせることもできない。まずは各自が災害時にどこへ避難するか日ごろから考えて備えておくべき(桜木)●地域の防災訓練において、AEDの使用方法等だけでなく、避難弱者の搬送についての訓練を行う。(高橋)●渋谷区で行っているような、高齢者・身体障害者の世帯への、家具の転倒防止(固定)にかかる補助・無償取付け制度が必要では。(高崎)●町内で具合の悪い方が多かったため車イス不足になった。車イスを普段から使ってないので、空気が入ってなかった。(鶴ヶ谷)●タンカで人を運ぶのが意外と重くて大変だった。訓練とは全く違った。(鶴ヶ谷)●災害時要援護者リストがあっても、震災時には機能しなかった。要援護者が自分のことをどのように地域に発信するかが大事になる。要援護者であっても、自分にできる限界(自助の範囲)を明確に示すこと。災害時に自分の命を守るためにできることを自覚することが大事。(大代)●人工透析が必要な方や、たんの吸引が必要な方等、電気がないことにより生命維持に支障をきたす方への対応をどうするべきか(高橋)?支え合い・助け合い●手話をしていたので、視覚障害者の代わりに動いた。(笠神)●助け合いの精神で一人暮らしの人を泊めてあげたのだが、他人との共同生活に慣れていないので、2日目くらいからちょっと色々気になるようになってしまった。(高崎)●近所5、6件で共同して卸町から水をもらってきた。(ペットボトルに名前を記載。)車を動かせる方が運びに行ってくれた。(高崎)●自分のことばかり考えている人が多い中、他人のために何回も水汲みをしている人もいた。(伝上山)●不自由な環境だからこそ家族で協力することができ、楽しい生活を送ることができた。(高崎)●震災をきっかけに家族の会話が増えた。ロウソクのもとで家族そろって食事したことによって。(新田中)●町内会の中には、様々な愛好会活動があり200名ほどの住民が参加している。こうした日頃の取組が今回は生きたし、支え合いの基礎となっていた。(鶴ヶ谷)●ひとり暮らし。地域の役員さんが「早く逃げて!」と連絡に来てくれた。その後も「無事だったか」との声がけがありがたかった。(桜木)●かなりの時間が経ってからだが、避難所仲間と新しいつながりができたこと。(桜木)●今まであいさつくらいしかしないご近所さんと家の片付けなどで助けあえた事がよかった。(桜木)●普段接点のない近所の若者に助けられた、避難所まで誘導してもらい助かった。(山王)●近所の若い人がきてくれて、窓枠などを直してくれた。(新田)●一人暮らしの母親が近所の声がけで、不安がらずにいられたのはよかった。(新田中)●体が不自由な家族がいるので、常々近所の人たちとつき合いがあり、携帯電話の番号を交換している。震災時、近所の方が車で家族を連れて避難させてくれたのが嬉しかった。常日頃のコミュニケーションが大事だと思った。(浮島)●幸い橋本団地は津波を受けなかったので、一致団結ということでみんなで頑張った。地域のために動いた人の数は少なかったが、団結感が素晴らしかった。余りに嬉しくて涙が出た。6~7名で救援物資をリヤカーに積み、津波に遭われた方に優先的に届けるべく、ずぶ濡れになり寒さに震えながら配り歩いた。今思い出しても胸がいっぱいになる。(大代)●「あんたは津波に遭っていないから幸せだ」とよく言われるが、地震で家も壊れ大変な状況の中、津波被害のあった方のために一生懸命貢献しているつもりなのに、ひどい言われ様で悲しくなる。災害は人間の隠れた一面を見ることができることを実感した。助ける人も助けられる人も、互いを思いやれるような地域の絆を強くしていきたい。(大代)●非常時、特に初期においては、人は困っている人をほっとけない、助け合う生き物である。(大代)