東日本大震災の記録

東日本大震災の記録 page 59/178

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東日本大震災の記録

59第3章活動の報告3月日、非常に寒く雪が降って11いたのを記憶している。「寒さ」から身を守ることの難しさを、活動を通して痛感した。私達は、利府管内のショッピングセンターで救助活動を終え、沿岸部に津波警戒広報に向かう途中だった。砂押川に架かる八幡橋を渡ろうとしたその時、「津波だ」!!下流から色々な物を巻き込んだ黒い水が、凄い勢いで逆流してくるのが目に入った。すぐさま隊員3人は車両から降り、「早く車から降りて高台に逃げろ」と、周囲に声を掛けて回った。私達の予想を大幅に裏切って、砂押川が氾濫するのではなく、国道側から津波が浸水してきた。どんどん水位は上がる。自力避難困難な方々が多数いたので、3人で手分けをして近くのビルの2階に搬送した。水位は、膝から腰、腰から胸へとどんどん上がっていく。周りに逃げ遅れた人が見当たらなくなり、隊員3人で近くのアパートに緊急避難した頃には、既に水位は足が届かない状態まで達していた。今でも目を閉じると、自分達の周りを流されていく車両から、ショートによってクラクションが鳴り響いている、「ビー」というあの音が頭から離れない。緊急避難させて頂いたアパートでは、全身ずぶ濡れになって凍えそうだった私達に、毛布を貸してくださったが、三人身を寄せ合って寒さから逃れようとしても、震えが止まることはなかった。時間は無常にも過ぎていく。やっと近くの消防隊と交信が出来て浸水域が把握出来た。隊長から、「泳いで帰ろう、行けるか」三人で意を?!決し再び水に入った。既に、寒さで体中が動かない、しかも水位はやっと足が届く程度、流れ着いたパレットにしがみつき必死に声を掛け合いながら脱出した。多賀城署まで帰り一時暖をとった後、ドライスーツに着替え、桜木一帯をボートで牽引しながら救出に向かった。桜木の入り口にある歩道橋には、数百名の避難者が見えた。桜木一帯は浸水により、ドライスーツを着ている私達が何とか行ける状態で、一般の方が歩くのは不可能だった。普段は飲み屋街で騒がしい場所だが、全く光が無く暗闇で、静まりかえっており不気味な雰囲気であった。聞こえてくるのは、私達のヘッドライトの光を見つけ、「助けて!」「こっちに具合の悪い人がいる」「早く助けて」と助けを呼ぶ声だった。!!助けを求められる先々で、全ての人を搬送してあげたかったが、ボートには制限があり、「今は乗せて行けない、でも必ずまた戻ってくるから待っていて下さい。」と涙をこらえながら伝え、容態の悪い方を優先して搬送した。この周辺は津波によって、ずぶ濡れになった状態で、高台に避難している方が多く、津波から逃れることができたにもかかわらず、「寒さ」によってお亡くなりになっていた方が多数いた。「寒かったことでしょう。もっと早く救出してあげられれば、助かっていたかもしれないのに…。」無念で仕方なかった。その後、必死に津波や寒さと戦った方々の、ご遺体を何体も確認したことを覚えている。今でも、未だ3、000人弱の方が行方不明となっている。全員が家族の下に帰る日まで「東日本大震災」は終わらない。これからは、被災地消防として経験を無駄にすること無く、多くの方に伝えていくこと、今の生きた記憶を風化させないことこそが私達の役目だと思う。復興の道のりは決して平坦ではなく厳しい道のりである。しかし、私達は明日を信じ前進あるのみ。ともに前へ。元多賀城消防署特別救助隊本野康裕さん消防士長被災地消防としての経験を後世に第1部消防・警察・自衛隊の活動