東日本大震災の記録

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東日本大震災の記録

東日本大震災の記録60第3章3月日、私は休みであったが、11地元東豊中学校の卒業式に出席し、駐在所へ戻って休んでいた。そして、あの大きな揺れ。「宮城県沖地震が来た。」と私は長さや規模から直感的にそう思い、すぐに信号機や河川の状況などを確認するために同僚と二人でパトカーに乗り、パトロールに向かった。多賀城市大代1丁目の念仏橋が、地震により橋桁にずれが生じ、崩落の危険が認められ、通行止め規制を開始した。そのとき私達は、無線でメート10ルクラスの大津波警報が発令されたことを聞き、住民に対して直ちに高台へ避難する様に呼びかけ続けた。するとすぐに砂押川が干上がり、私達も大津波に巻き込まれる危険性が増してきたことから通行止めの範囲を拡大するとともに避難広報するためパトカーを移動させた。丁度午後4時ころだったと思う。ドッドッドッと轟音と共に津波の第一波が到達し、私達は津波に気づいていない住民が大勢いるものと思い、さらなる避難広報を続けた。その後、大代郵便局付近を走行していたところ、目の前の貞山運河から津波が襲ってきた。私達は危険を感じたことから、そのままUターンし自衛隊前付近にきたところ、そこにも津波が押し寄せパトカーの前後を津波に挟まれ絶対絶命となった。しかし、私達は大代地区の路地裏を隅々まで把握していたことと、小型のパトカーであったことが幸いしやっとのおもいで幅2・0メートルの大代飲食店街を通り抜け、高台へと避難することができた。津波を見るまで私達は「高台へ避難して下さい」と落ち着いた口調で広報していたが、津波到達後はいつの間にか「津波だ、逃げろ、逃げろ」と緊迫した広報となっていたのを覚えている。後日、私達が早めに交通規制をかけたことや、避難広報を必死で行ったことで助かった人々から感謝の言葉を受け、私達の行動が間違っていなかったと思うに至り、それが我が身の糧となっている。今回のように震災はいつ来るか分からない。しかし、私はこの震災を体験した結果、災害発生時に警察官として「何をすべきか」ということを自然に体で学ぶことが出来たし、住民の方には、何よりもいち早く避難してもらうことが重要であることを痛切に感じた。今後、この貴重な経験を後輩に語り継ぐとともに、有事の際には、自ら率先してその対応に当たりたいと思う。交通規制の実施と必死な避難広報宮城県塩釜警察署大代駐在所武田一貴さん所長