東日本大震災の記録 page 65/178
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東日本大震災の記録
65第3章活動の報告平成年3月日午後2時分の231146地震発生時(多賀城市の震度5強)、地鳴りとともに強い揺れを感じ、その揺れの大きさと約3分間続いた揺れの長さから「津波が来る」との予感がいたしました。揺れが止んでまもなく、防災広報により「大津波警報発令。避難してください。」の広報が繰り返し放送され、時分には、消防団全団員に1515「詰め所待機。」各分団長には、「ポンプ車による巡回広報、管轄エリアの被災状況調査及び被災状況報告」について、災害対策本部から無線による指示がありました。本市には、市域を横断している2級河川「砂押川」が流れておりますが、地震発生から分以上経過して30いるにも関わらず、全く変化がなく安堵いたしましたが、時分ごろ1545ラジオ放送で宮城県及び岩手県の三陸沿岸地域の複数の自治体に津波が襲来しているとの放送が流れました。目の前の市道では、車両が渋滞して動けなくなっている状況下で西側から道路冠水が見え始め、瞬く間に水位が増し、数分後には1m以上になりました。更に強い流れが襲ってきて、がれき、車両(トラックやタンクローリー等)、コンテナ等とともに急流がすべての場所に入り込み、家々は泥海の中で孤立状態になりました。時ごろ、数回の爆発音が響き渡22り、確認すると石油コンビナートから火の手が上がっておりました。そして、このコンビナート火災は、次々と誘爆を繰り返し、5日間にも及ぶ大火災となったのでした。9月1日現在の被害状況は、市内での死者数188人、市民の死者数122人(市外で亡くなった方を含む)、行方不明者1名となっており、消防団員1名が殉職いたしました。市域の約1/3が水没いたしました私。たち消防団は、震災直後は、広報活動、避難誘導、河川等の水位変化の確認、被害状況の確認等を行っておりましたが、停電の影響で信号機が止まったことによる交通渋滞や津波の影響で十分な消防団活動ができずにおりました。食事や水も満足にとれず、休息もとれず、不眠不休で活動に当たり、疲労困憊の状態が続いておりましたが、そんな中で自分たちにできる最善のことを模索し、できること、求められることを精一杯行ってきました災。害対策本部に消防署や警察署から人員と車両の応援要請があったことから、私たち消防団は、消防や警察の人たちと一緒に最前線で救助活動を行いました。まだ3月ということもあり、浸水している水は冷たくその冷たい水に浸かりながらの救出活動でした。また、停電が続いている状況下で夜間は街中が真っ暗であったことから、防犯パトロールを実施しました。当初は、津波被災地域を中心に管轄している分団がその担当エリアを巡回しておりましたが、その他の分団の協力をもらい輪番制で市内の防犯パトロールを実施いたしました想。像もできないほど大きく強い津波が、私たちの家族、友人の命を奪い、家屋、家財を壊し、たくさんの思い出と一緒にたくさんのものを奪い、流してしまいました。こんな悲しい辛い思いは、繰り返したくない。そうしないために、多賀城市の住民のため、そして、自分の家族、子孫のために、今回経験(体験)したことを正確に、確実に、後世に伝えて行かなければなりません。そして、多賀城市の状況や私たちの経験や活動を全国に情報発信していかなければならないと考えます。それが、今、生きている私たちの役目だと思います。普段の生活の中で、万が一に備えるというのは、なかなかできるものではありません。それは、見たことも体験したこともない地震や津波等の災害のいろいろな状況を想像しなければならないからです。万が一に対する備えができる人は、頭の中で災害の状況がしっかりイメージできる人だと私は考えます。幸か不幸か、私たちはこの震災を体験しました。第三者や行政から言われるのではなく、自発的に各家庭には、非常持ち出し袋があり、食糧・飲料水等が備蓄してある。そんな当たり前の状況になっていることを期待します。災害対策本部の要請で災害最前線で活動第2部多賀城消防団の活動多賀城市消防団佐藤一朗さん団長