東日本大震災の記録 page 73/178
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東日本大震災の記録
73第4章3・11ドキュメント「あの日」り多賀城のポリテクセンターに向かうこととし、地下の駐車場から公用車を出し、多賀城(仙台港)に向かった。車中で、他の職員の携帯電話で映像を見ることができた。映画の一場面のような画像が流れていた。大型の漁船が横倒しになり浜に打ち上げられていた。これは凄いことだと画像を見て考えてはいたが、実感が無いというか地理的な関係を理解してなかったのか、そのまま多賀城(仙台港)に向かっていった。停電のため信号機は機能せず道路は大渋滞であった。途中、住んでいるアパートの横を通る時何となく「もう帰れない場所」みたいな感じがして、変に思いながらも進んでいった。ちょうど仙台港の交差点で渋滞のため停車した。大きな十字路の交差点で、「まだまだセンターまで時間がかかるな」と思った瞬間、右側の道路から土ぼこりを立てて小さな角材を伴い水が流れてきた。えっ?何?と考えた時、ものすごい勢いで大きな黒い波が流れてきた。「これは早い!」車をバックするにも渋滞で後ろが詰まっているため、思うように動きが取れない。じたばたしているうちに波が車を持ち上げた!「これが津波か!」それからは波に任せるしかない、どんどん流されていく。交差点からどんどん遠ざかっていく。見ると交差点を海側から反対方向へ大型の観光バスが高速道路を走行している速さ並みのスピードで流されていった。この場面映画で見たな、でも映画は特撮で作ったもの、これは現実の光景、映画より凄いなと感じた。自動車に乗ったまま水に浮かび流されるというのは、気持ちのいいものではない。遊園地のアトラクションに似たものはあるが、それは経路が決まっているもの、今はどこに行くか全く分からない。その時、車が大きく傾いた、何が起きた、岩だ!車が歩道わきに造園のために置かれている岩に乗り上げたんだ。これが幸運であった、助手席側が岩に乗り上げた拍子に水面から外に出た。すぐにドアを開け外へ。外に出た瞬間に大波が押し寄せ私を含めて3人が流された。波の高さは身長を超え、ただ流されるまま、しばらくすると渦の中に巻き込まれ、周りからは波に浮いた車がどんどん押し寄せてくる。これらの車を手で押しのけてなんとかトラックの荷台に登り波からは逃れることができた。さっきまでいた道路を見ると渋滞していたはずの車が見当たらない。代わりに歩道の植え込みや岩に乗用車、トラック、コンテナ等が重なっていた。自分たちの乗っていた車は姿さえ見えないほど上にトラックなどが積みあがっていた。これが現実か?流されていた瞬間は「死」さえ意識したほど、尋常な出来事ではなかった。その日は3月なのに雪がちらつく寒さの厳しい日で、トラックの荷台から近くの会社の事務所2階に避難させていただいて一晩凍える思いで過ごした。最後にお伝えしたいことは、人と人とのつながりの大切さをつくづく身にしみて感じたことと、極限状況での人の行動がその人の本来の姿を示すものだということを痛感したことである。震災発生時、津波に流された時、もし一人であったら生きる努力をあそこまでしただろうか、と今になると考えてしまう。「何とかみんなで生きぬかなければいけない」「もう一度家族に会いたい」と気持ちを奮い立たせた。すべて誰かのことを考えてできた行動だと思う。あの大震災は、経験すること自体低い確率の体験ではあるがその大震災を経て「人とは」「仲間とは」を改めて考え直すことができ、さらに生きていく中で大事なものは何なのかを理解できたような気がする。お忙しい中、お読みいただいている方々に、被災地に対する多くのご支援を心より感謝申し上げますとともに、私どもは、今後もできることを着々と進めて参る所存でおりますので末長くよろしくお願い申し上げます。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・想像を絶する光景の中でフクダ電子ファインテック仙台㈱製造部部長木村一幸さん地震発生時は1階事務室通路にいた。皆で手をつないで揺れるのが治まるのを待った。揺れはあまりにも大きく、そして長く、死を予感させるほどのものだった。揺れから開放されて咄嗟に思いついたのが車載TVからの情報入手だった。大津波警報が発令されており、多賀城沿岸への津波の高さは6mのアナウンス。大急ぎで社員全員を5階会議室へ避難させた。フクダ電子多賀城研究所は津波避難ビルに指定されており、近隣工場や住宅から130名ほど避難して来た。それから分40後、5階大会議室から外を見ると不気味な静けさの中、北東の港方向から道路に沿って津波が押し寄せて来た。あっと言う間に水嵩が増し、石