東日本大震災の記録

東日本大震災の記録 page 74/178

電子ブックを開く

このページは 東日本大震災の記録 の電子ブックに掲載されている74ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「電子ブックを開く」をクリックすると今すぐ対象ページへ移動します。

概要:
東日本大震災の記録

東日本大震災の記録74第4章油コンビナートのタンクが倒れ、そのまま流れてきた。駐車場の車も次々に浮き始め流されて行った。周囲からは建材、ガスボンベ、大型トレーラそしてタンクローリー車まで流されて来た。その光景は想像を絶するものであった。やがて、暗闇が迫ると共に窓ガラスが吹き飛びそうなほどに大きな爆音が聞こえた。仙台港の石油コンビナートの爆発炎上である。分程の間隔で10爆発音が聞こえてくる。次々に隣接するタンクへ引火し爆発炎上して行く。炎上の煙は幸いにも海の方に流れている。屋上に上がると炎上の輻射熱を顔に強く感じた。辺り一面はひどい臭いの油が一面に浮いており、引火して火の海にならないように祈るのみだった。避難者の中にはパニックに陥る者や脱出したいと言う人が増え始めた。しかし、外は約2mの冠水、暗闇、氷点下と言った環境下での脱出は危険と判断。その時点での退避を思い止まってもらった。コンビナート火災の煙の流れを朝まで監視し、風向きが変わりこちらに煙が来るようなら脱出すると言う事を決めて避難を続けた。翌日早朝、辺りも明る12くなり、また水も腰くらいまで引いたので退路を調査確認の上、名程度のグループを形10成、脱出し、それぞれの自宅へと向かった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・備えることの重要性と工夫して暮らすことの意味小野屋ホテル常務取締役小野恒子さん平成年3月日に体験した2311未曾有の大震災は、私たちに何を残し、何を教えたのでしょうか。あの日、ホテルキャッスルプラザ多賀城に向かう途中に地震に遭った私は、揺れが収まるのを待ってホテルキャッスルプラザに辿り着き、その後小野屋ホテルに急ぎ向かいました。ホテルの3階は津波の緊急避難施設になっており、西区の区長さん・役員の方々と自衛隊員の方々が、避難してくる近隣の人の誘導にあたっているところでした。地域の人達120人が避難してきまして、3階・4階の客室部屋と、和室宴会場の末広の14間、柏木の間等に収容いたしました。私たちホテルのスタッフは、夕方、午後6時にカップヌードル120個、飲料水、菓子等を120人の方々に提供いたしました。区長と役員の人達で、配食を手伝っていただいたので非常に助かりました。その他に、毛布等防寒用具の配布や、使用可能トイレを確認して使用して頂きました。停電でしたので、非常用に備えてあった懐中電灯を避難者に配布しました。午後時頃に、自衛隊の無線10で石油コンビナートが爆発炎上し、ホテルが2km以内の危険地域に入り、避難指示により一時避難所であるホテルから自衛隊員の誘導で避難すると、まだ15cm位まで水位が残っていましたが、足の踝まで水につかりながら歩道橋まで歩いて避難しました。避難した歩道橋から、今度は自衛隊の車両と消防団のポンプ車で、自衛隊の3号隊舎へ全員避難しました。自衛隊では、翌日の日の夜12に、あたたかいハンバーグの缶詰・シイタケ御飯等と水を支給していただきました。その時に、日の夕方にカッ11プヌードル、菓子、飲料水等を出していて良かったと思いました。その後、石油コンビナートの火災のため二次避難をした私達避難者は、自衛隊舎で夜を明かすことになったのですが、隊員の方々の時間体制での対応に24は頭の下がる思いでした。それからは、津波の後片付けや、水と電気のない暮らしを工夫し、知恵を出し合って過ごした毎日でした。この震災を通して、私は備えることの重要性と、災害に対して工夫して暮らすことの必要性を痛感しました。この体験を次の世代の人に伝えることが、私たちの役割ではないでしょうか。震災当時大変お世話になった自衛隊員の方々、区の役員の方々、そして消防団の方々に心より御礼申し上げます。又、私費を投じて泥だらけになりながら、私達を助けてくれたボランティアのみなさん、本当にありがとうございました。最後に、地域の緊急避難施設として近隣の皆様に周知していただき、緊急時に役立てる施設であり続けるため、スタッフ共々努力していきたいと考えています。小野屋ホテル一時避難場所の駐車場で津波の水位(1.3m)を指差する小野さん旧フクダ電子多賀城研究所一時避難場所で津波の水位(2.88m)を指差する下村賢一さん