東日本大震災の記録 page 77/178
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東日本大震災の記録
77第4章3・11ドキュメント「あの日」今でも残念に思えてなりません。このような経験から、千年に一度の震災と言われていますが、不測の事態はこれだけではありませんので、燃料の安定供給を成立させる会社として、その使命を果たせる準備を実行して行きたいと考えております。また震災時には、多くの方々からのご支援や励ましを受け、地域の皆様の温かさを感じる事が出来ました。昭和年から多40賀城市や地域の皆様にお世話になっている会社として、今後もお役に立てるよう頑張って参ります。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・現実のものとは思えない光景のなか理研食品株式会社品質保証部部長佐藤純一さん東日本大震災の大地震の後、理研食品本社工場の従業員230名は全員屋外に避難し、点呼により全員の無事を確認しました。防災広報等からの情報が無い中で、携帯電話のワンセグ放送により、津波発生情報を知り、運送業者の方、来訪者の方等も一緒に第6工場の2、3階と技術棟の2階に避難しました。この際、家族が心配で帰宅したいという方もいましたが、津波到達による人的被害防止を優先し全員避難させました。また、仙台市ガス局に隣接する仙台新港工場の従業員名は大地90震後に管理棟3階の食堂に避難しようとしましたが、食堂は吊り天井が落下し、足の踏み場もない状況となっており、工場内での避難を諦め、全従業員が本社工場まで約分歩いて避難し10ました。避難してからも「本当に津波が来るのか?」と半信半疑でしたが、時頃に工場南方の仙台16新港方面から大津波が襲来しました。大きな波と共にコンテナやトラックなどありとあらゆるものが流れてきて、現実のものとは思えない光景でした。津波がおさまった後、工場周辺は冠水し、工場内で一晩を明かすこととなりましたが、水や食料も全く無く、工場内にあったポリ袋を体に巻いて、段ボールを床に敷いて寒さをこらえました。大きな余震が続く中、寒さと暗闇の中で石油コンビナートの爆発音と炎の赤い光が恐怖に拍車をかけ、眠れぬ一夜を過ごしました。翌朝、ある程度水が引いたので、帰宅可能と判断し、避難を解除し、帰宅方面毎にグループを作って徒歩で帰宅しました。工場から北に向かった人達は途中で腰まで水に浸かりました。本社工場、仙台新港工場共に大津波により、工場の全ての建屋は約3・5~4mまで浸水し、工場1階の壁、ドア、窓等が破壊され、製造設備もほぼ全損の被害でした。また、工場内には大量のガレキ、汚泥、車両が流れ込み、どこから片づけて良いか分らない状態でした。3月日過ぎから全従業員総20出で片付け作業を開始し、4月末には工場建屋内含めてガレキと汚泥、車両等の撤去作業が完了しました。その後、破壊された建屋1階部分の修復工事を進め、6月8日には主力商品であるわかめスープPの生産ライ10ンを稼働することができ、広報多賀城の8月号にもご紹介いただきました。その後、生産ラインを順次復旧させ、本年3月には再建設したカットわかめの工場も竣工し、本社工場の生産ラインは全ライン復旧致しました。理研食品は震災に負けず、食を通じて皆さんの健康と元気のお役に立てるようにこれからも頑張って参ります。3月12日7時41分撮影国道45号に給油に並ぶ車列・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・人との繋がりや思いやりの大切さを実感東洋刃物㈱管理部管理課課長菅原宏一さん昨年の3月日の東日本大震11災により、多賀城工場と仙台市に併設する本社・仙台営業所が甚大な被害を受けました。地震後最初にとった行動は、社員の無事の確認でした。その後全員が屋外に集合し唯一情報源であった携帯電話での大津波警報発令を確認し工場長の指示のもと全員が着の身着のままで指定されている避難所へ歩き始めました。停電により信号が点灯しておらず道路は大渋滞、雪の降る中車の間を縫いながら移動しましたが途中住民の方から何をしているのですか?と訪ねられ、大津波警報が出ているので非難をしていることを伝えると驚いた様子で家に戻られていました。今思えば情報が得られず改めて情報の大切さを感じました。77第4章3・11ドキュメント「あの日」今でも残念に思えてなりません。このような経験から、千年に一度の震災と言われていますが、不測の事態はこれだけではありませんので、燃料の安定供給を成立させる会社として、その使命を果たせる準備を実行して行きたいと考えております。また震災時には、多くの方々からのご支援や励ましを受け、地域の皆様の温かさを感じる事が出来ました。昭和年から多40賀城市や地域の皆様にお世話になっている会社として、今後もお役に立てるよう頑張って参ります。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・現実のものとは思えない光景のなか理研食品株式会社品質保証部部長佐藤純一さん東日本大震災の大地震の後、理研食品本社工場の従業員230名は全員屋外に避難し、点呼により全員の無事を確認しました。防災広報等からの情報が無い中で、携帯電話のワンセグ放送により、津波発生情報を知り、運送業者の方、来訪者の方等も一緒に第6工場の2、3階と技術棟の2階に避難しました。この際、家族が心配で帰宅したいという方もいましたが、津波到達による人的被害防止を優先し全員避難させました。また、仙台市ガス局に隣接する仙台新港工場の従業員名は大地90震後に管理棟3階の食堂に避難しようとしましたが、食堂は吊り天井が落下し、足の踏み場もない状況となっており、工場内での避難を諦め、全従業員が本社工場まで約分歩いて避難し10ました。避難してからも「本当に津波が来るのか?」と半信半疑でしたが、時頃に工場南方の仙台16新港方面から大津波が襲来しました。大きな波と共にコンテナやトラックなどありとあらゆるものが流れてきて、現実のものとは思えない光景でした。津波がおさまった後、工場周辺は冠水し、工場内で一晩を明かすこととなりましたが、水や食料も全く無く、工場内にあったポリ袋を体に巻いて、段ボールを床に敷いて寒さをこらえました。大きな余震が続く中、寒さと暗闇の中で石油コンビナートの爆発音と炎の赤い光が恐怖に拍車をかけ、眠れぬ一夜を過ごしました。翌朝、ある程度水が引いたので、帰宅可能と判断し、避難を解除し、帰宅方面毎にグループを作って徒歩で帰宅しました。工場から北に向かった人達は途中で腰まで水に浸かりました。本社工場、仙台新港工場共に大津波により、工場の全ての建屋は約3・5~4mまで浸水し、工場1階の壁、ドア、窓等が破壊され、製造設備もほぼ全損の被害でした。また、工場内には大量のガレキ、汚泥、車両が流れ込み、どこから片づけて良いか分らない状態でした。3月日過ぎから全従業員総20出で片付け作業を開始し、4月末には工場建屋内含めてガレキと汚泥、車両等の撤去作業が完了しました。その後、破壊された建屋1階部分の修復工事を進め、6月8日には主力商品であるわかめスープPの生産ライ10ンを稼働することができ、広報多賀城の8月号にもご紹介いただきました。その後、生産ラインを順次復旧させ、本年3月には再建設したカットわかめの工場も竣工し、本社工場の生産ラインは全ライン復旧致しました。理研食品は震災に負けず、食を通じて皆さんの健康と元気のお役に立てるようにこれからも頑張って参ります。3月12日7時41分撮影国道45号に給油に並ぶ車列・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・人との繋がりや思いやりの大切さを実感東洋刃物㈱管理部管理課課長菅原宏一さん昨年の3月日の東日本大震11災により、多賀城工場と仙台市に併設する本社・仙台営業所が甚大な被害を受けました。地震後最初にとった行動は、社員の無事の確認でした。その後全員が屋外に集合し唯一情報源であった携帯電話での大津波警報発令を確認し工場長の指示のもと全員が着の身着のままで指定されている避難所へ歩き始めました。停電により信号が点灯しておらず道路は大渋滞、雪の降る中車の間を縫いながら移動しましたが途中住民の方から何をしているのですか?と訪ねられ、大津波警報が出ているので避難をしていることを伝えると驚いた様子で家に戻られていました。今思えば情報が得られず改めて情報の大切さを感じました。