東日本大震災の記録

東日本大震災の記録 page 80/178

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東日本大震災の記録

東日本大震災の記録80第4章大津波警報発令、分後に4010メートル程度の津波』という声が流れてきた。『メートルの10津波?』と耳を疑ったが、同様の放送が何度も繰り返されていた。これを聞いた私は直ちに社内ルールで決められていた避難場所・構内建屋3階から、高台にある正規の避難所・文化センターに変更することを決断しました。ただ、こうした非常事態時においては、日頃の訓練やマニュアル通りには事が運ばないことが多く、「ああしよう、こうしよう」と勝手な判断をしたり行動をとる人が必ず出てくるものだが、最終的にはトップのリーダーシップが何よりも大切と思いました。私の場合は自分が先頭に立って避難したわけですが、皆も信頼して後ろから付いてきてくれたお蔭で全員無事でした。もし後ろから付いて来ない者がいて、犠牲者が出ていれば、イタリアで起きた豪華客船転覆事故で真っ先に逃げた船長のようにトップとして世間の厳しい指弾を受けたであろうと思います。作業着姿のわれわれ一行が列を成して歩いている姿に、擦れ違う人たちの目には「何事なのか」、「大袈裟な」と映ったと思いますが、避難場所に到着した分後には予報どお10り大津波が襲ってきたのです。危機一髪でした。避難の判断が遅れたらと思ったらゾッとしました。最後になりますが、当社は甚大な被害を受けましたが、製造拠点の一部を他に移して暫定的ながらも約一ヵ月半という奇跡的なスピードで製品出荷に漕ぎつけることが出来ました。このことは、今振り返ってみると、幸運にも一人の犠牲者も出すことなく、全員無事避難できたことに尽きると思います。『災害は忘れた頃にやってくる』という教訓をしっかり胸に刻んで、防災意識、防災対策に万全を期していきたいと思っています。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・全国からのボランティア2万余名、感謝の毎日でした多賀城市社会福祉協議会会長飯田典美さん平成年3月日午後2時231146分に発生した巨大地震とその後に来襲した大津波は、宮城・福島・岩手3県の太平洋沿岸を木端微塵に破壊してしまい、多賀城市にも考えてもいなかった未曾有の被害をもたらしました。この大災害によって犠牲になられた方が188名、又建物被害も全壊1、746棟、大規模半壊・半壊・一部損壊を合わせて9、738棟とそのほとんどが大津波によって犠牲になられました。犠牲になられた方々のご冥福をお祈り申しあげますとともに、多大な被害を受けられた方々にも心からお見舞い申し上げます。さて、発災から多賀城市社会福祉協議会は、多賀城市との協定に基づき災害ボランティアセンターを設置する事になっておりましたが、想定された災害をはるかに超えた被害状況により「マニュアル」の変更等手間取る場も乗り越えての活動開始でした。全国からのボランティア数2万余名、北は北海道から南は沖縄まで自己完結の理念でかけつけてくれた支援活動。朝現地に出掛け、泥出しや瓦礫の撤去、家財の整理等、午後3時頃に全身泥だらけになって帰って来るボランティアの皆さんに「ありがとう。ご苦労様」と頭を下げる毎日でした。限られた職員体制の中で従来の業務もあり、人手が必要となり全国社協よりの派遣職員として岡山県・広島県・山口県・京都府・奈良県・和歌山県の皆様の知恵の提供、適切なアドバイス、ソニー・アサヒビール等地元企業各社の職員のご支援ご協力を頂きました。又、緊急生活安定資金の貸付け申請業務には市役所OB会にお願いしてご協力を頂きました。さすがに地域に明るい方々でしたので、本当に助かりました。災害ボランティアセンター設置当初より民生委員・児童委員の皆様にはボランティア受付、ニーズ受付、調査係、運転係、更には支援物資の配送等献身的にご協力も頂きました。震災後2年が経過いたしましたが復興のスピードが鈍く、仮設住宅で生活されている方々の体調の変化がみられる様になって来ており、孤立化や自殺防止のための見守り・安否の確認に復興ボランティアセンターの生活支援相談員と民生委員・児童委員が連携を密に活動し、入居されている方々が自立される日が一日も早くと願っております。多賀城市社会福祉協議会は、宮城県社会福祉協議会、共同募金宮城支部よりのご支援ご協力を頂きながら、継続的な支援活動を進めて参りますので、皆様のご理解とご支援を賜りますようお願い申し上げます。