東日本大震災の記録 page 81/178
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東日本大震災の記録
81第4章3・11ドキュメント「あの日」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・震災を経験して仙塩総合病院院長神尾一彦さん時分、揺れは大きく、異1446常に長い。非常用電源が作動した。被害は旧棟に大きいが、死傷者はない。動けない患者を担架で新棟へ運び、他は病院の外へ誘導する。と、大津波警報が発令され、慌てて周囲の人々と共に2階へ呼び戻す。津波は見えなかったが、水は東から押し寄せ、止まりそうだったのに、砂押川からも。水嵩が上がり1階2mまで浸水。地下設備が水没し、ライフラインは全滅した。水中の孤島となった。夕闇、流されてきた人を2階非常口から救い入れる。携帯は不通、MCA無線も消えた。日没、海岸で爆発音がして火の手が上がった。入院患者は201人。誰も逃げだせない。二日後、動ける人を避難所に誘導し、医師、看護師を配置する。車は水没。徒歩なら帰宅が可能だが、家族を連れて避難してくるものもいる。日、塩釜医療圏の病院や役14所の会議が開かれ、初めて当院の被害が知られた。病院機能を喪失したのに、転院させられない。〈緊急時避難計画に含まれていない私立病院〉だが、市に〈避難所に準じた扱い〉として頂き、水や食料の配給があり救われた。転院はその後も難しく、家族も抱えた暗く寒い日々が始まる。復旧を目指す戦いは、まずは掃除から。泥を掻き出す人海戦術だ。自衛隊が運んでくれたドラム缶の灯油で、ストーブを点け、ペットボトルを湯たんぽ替わりにした。ガソリンがなく苦労した。電気や水洗トイレはずっと後だ。外来投薬は震災直後から行ったが、通常診療開始は5月の連休明けだった。三十数名が転院できなかった。地震には耐震建築が必須だが、風水害には違った対策がいる。起こった災害に対する対策も必要だ。緊急時に、病院に避難してくる方は少なくない。病院には患者がいる。病院が被災することもある。震災後、非常食は3倍に、置き場所やカルテのバックアップなどを複数にした。しかし、どうしても支援が必要です。緊急時の避難計画を再検討してほしい。病院が無事であれば、お役に立てることも多い。多くの温かいご支援に感謝します。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・運命の開きの大きさ少林寺拳法グループ福井県見﨑俊次さん2011年4月6日(水)早朝、福井県坂井市三国町から、二人で宮城県多賀城市へ車で向かいました。目的は、多賀城市東田中在住で少林寺拳法グループの所属長をされている砂野氏が、少林寺拳法グループ災害復興ボランティアの拠点として自宅を提供し、活動を始める事になり、立ち上げに際しお役に立ちたいとの思いからです。多賀城市に入ると、市内は津波の後が生々しく、埃が舞って薄暗く、塵と瓦礫が散乱しており、拠点に着くと電気は復旧されていましたが、水道が使用制限状態で、人員は少林寺拳法グループ職員の方が2人、学生が5人、私たち2人の計9名でした。翌日は一回目の復興活動で、ボランティアセンターに向かい資材を持って、活動現場に行きました。現場は民家で、建物は立っていましたが、内部は泥と廃材で散乱し、床下は泥で埋まった状態でした。作業は民家の家屋床下の泥出しと、廃材の撤去片付けでしたが、床板を剥がす作業が難航しました。私達の休憩や食事時には、被災された民家の方々が、お茶や菓子を出して下さり、そんな皆様と会話をしながら、悲惨な中でも助け合い、励ましあいながら前を向いて頑張っている姿を尊く思いました。その日の夜、時分、今ま2332で経験したことのない激しい揺れに襲われました。震度6強の最大余震です。仕事柄、少々の事では動じないと思っていた私ですが、この時は生きた心地がしませんでした。実は私は、訳あって被災直後の宮城県名取市に入ってしまい、県警機動隊・消防に混じって2日間、ご遺体の収容を行う事になりました。その後、多賀城市へ数回、宮城県・岩手県各被災地への復興ボランティアに度々参加させていただきました。復興活動から車で帰路につき、自宅のある街並みを見るたびにいつも思うのは、数時間前のあの悲惨な廃墟と化した街と、何不自由なく平和なこの街との、運命の開きの大きさを、どう考えたらいいのか迷う事です。今回の震災で亡くなられた