東日本大震災の記録 page 82/178
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東日本大震災の記録
東日本大震災の記録82第4章したが、%の学生の安否確認99ができたのは3月日になっ31た。多賀城市にある工学部のキャンパスでは、地震後すぐ近くまで津波が到来したため、地域住民数百人がずぶぬれのまま避難してきた。避難者は、絶え間なく続く余震に加え、近くにある仙台港のコンビナートが炎上するなど不安な一夜を過ごした。その後、工学部の礼拝堂は約二週間にわたり臨時の避難所として開放することになった。ここに避難した方々の中には日本国内を旅行中に津波に巻き込まれたドイツ人の家族3人もおり、後にドイツに無事帰国されてから御礼をいただいたことが新聞やテレビでも報道された。なお、土樋、多賀城、泉それぞれのキャンパス間の連絡には、TV会議システムが有効に機能した。東日本大震災の当日から多くの教職員、学生諸君が献身的に働いたことに感謝すると同時に敬意を表したい。震災から約2週間後に立ち上げた「東北学院大学災害ボランティアステーション」は、学生諸君の献身的な行動と、それをサポートする教職員との連携によって継続され、今では全国の大学間連携ネットワークの中心となって復旧・復興のための活動をコーディネートするまでになった。これらの貴重な経験は今後の復興の実現と、彼ら大学生諸君の今後の人生に大きな意味を持つことになると確信している。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・震災と復旧の経験東北学院大学工学部環境建設工学科教授吉田望さん地震の時、私は大学の研究室方々のご冥福を祈りつつ、一日も早い被災地の復興を願っております。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東日本大震災を経験して東北学院大学学長星宮望さんやがて起こると言われていた宮城県沖地震に備え、数年前から学内ではキャンパスの耐震補強工事や非常用備品の備蓄、携帯電話を使った安否確認システムの稼動など万全の態勢をとっていた。しかし、キャンパスそのものの被害については想定していた規模だったとはいえ、東日本大震災による被害は甚大なものであり、最終的には被災した学生諸君への支援が大きな課題となった。地震が発生した平成年3月23日の午後は、年に1回の全学11教授会が土樋キャンパスで開催されていたため、ほとんどの教授が土樋に集まっており、大学の役職者も出席していた。尋常ではない揺れが収まった後は一時避難し、すぐに災害対策本部を立ち上げた。まず、学生諸君の安否確認作業を優先的に開始にいた。本が数冊棚から落ちた程度の被害であったので、年78宮城県沖地震の再来と思い、調査に出るべく、桜木にある自宅の安全確認をした後、大学に戻る途中、砂押川の手前で、津波で氾濫しそうという声がしたので、号線にかかる歩道橋に避45難した。しばらくすると、号45線に沿って中野栄の方から水が流れてきた。水は次第に増加し、車などが流されはじめ、そのうち人の胸近くの深さまで湛水した。歩道橋の上には100人近くの人が避難していた。助けが来たのは、日が変わった、午前2時半頃で、手こぎボートで橋の上まで救出された。夜道を大学まで戻り、避難所になっていた礼拝堂で寝ることができた。翌日は、大学の研究室をベースとし、自宅を何度か見に行ったが、まだ湛水しており、自宅に入れたのはその次の日であった。しばらくは、夜は大学で寝、昼は津波でつかった家の泥を片付けるなどの作業をした。といっても停電、断水中であるので、できることは限られていた。幸い、すぐ近くの用水路に汚れてはいるが水が流れていたのでそれを使い、トイレと片付けに用いた。大学では貯水槽の