東日本大震災の記録 page 84/178
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東日本大震災の記録
東日本大震災の記録84第4章・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・体育館を開放して避難所として対応山王小学校PTA会長今野喜弘さん今回の東日本大震災を経験して気づいたことが2点あります。1つは想定外の災害にみまわれた場合、訓練はまるで役に立たないと言うことです。学校においても避難訓練は実施してましたが、停電により放送設備は使えず、避難指示はパニックになった子ども達の声にかき消されました。又、避難場所の校庭もあまりの激しい揺れに液状化が心配された為、ためらわれました。児童の引き渡しにおいても同様で訓練は実施してましたが、訓練のように整然と並んで保護者に引き渡すというようなことは出来ず、迎えに来た保護者に手当たり次第に隣近所の児童も引き渡すような状況で混乱が生じました。無事最後の児童を引き渡したのは深夜0時近かったと記憶しています。2つ目は当然学校が避難所として開設されましたが、学校と行政とのパイプ役の必要性を強く感じました。体育館を開放し運営にあたる市職員も来ましたが、避難者からの様々な要求に学校の勝手がわからないため、十分に応えることが出来ませんでした。たまたま私は会長と言う立場上、学校に頻繁に出入りしてましたしその場に居合わせたのでパイプ役となれましたが、多くの学校では教職員が携わったのではないかと思います。しかしそれでは学校の再開も遅れますし、子ども達の安否確認も出来ません。普段より市職員と学校職員の訓練及び、連携の必要性を強く感じました。又、パニックからか、大勢の避難者が体育館にいて酸素不足によるものかわかりませんが、意識を無くした方が2名いました。看護師さんが偶然いたため事なきを得ましたが、運営スタッフの中に医師、看護師等もいると良いと思います。以上2点が、PTA会長として学校及び避難所運営に携わった者として震災で得た教訓です。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・あの日のことを忘れずに語り伝えていくこと東北学院幼稚園園長佐々木勝彦さん2011年3月日、園児は11ほぼ降園し、預かり保育の園児が名、2便目のバス待ちの園18児名の計名は園庭中央に一2139次避難し、その後津波への対策として隣接する東北学院大学工学部礼拝堂前へ避難誘導した。徒歩通園で、園庭で遊んでいた5名(親子2組で大人2名)は帰宅。工学部避難場所が一般の避難者で混雑してきたため、園児の安全確保上、園バス一台を工学部構内へ移動し、バスの中で園児・教師が待機し保護者の迎えを待つ。幸いガソリンが満タンで暖をとるのに十分であった。避難した園児名中、名は3938夜中時頃までに引渡し完了。12引渡しできなかった1名と、迎えに来たが帰れない祖母と園児1名、自宅が床上浸水で帰宅できない親子3名の計6名+教職員5名の合計名がバスに宿11泊。工学部から毛布、乾パン、水などの物資援助があり、バス泊園児等の安全が確保された。通信システムの遮断により園児の安否確認が難航し、震災後7日目にようやく全園児の安全を確認。卒園式は1ヶ月後に延期。修了式や新入園児一日入園等は中止し、災害発生時対策マニュアルの見直しを行い、ライフライン復旧後の4月日より22幼稚園を再開した。幼稚園に子どもたちの笑顔と歓声が戻り、共に過ごせることが何にも代えがたい幸せであることを噛みしめながら過ごしてきた日々。生活が少しずつ回復していく中で、経験したことを「津波ごっこ」のような形で表現する子どもたちの気持ちを、その場、その場で的確に受け止めながら子どもたちの心のケアにも努めようと、教師たちも一丸となって取り組んできた。今考えれば、ああすれば良かった、こうすれば良かったと反省することもたくさんあったが、あの日のことを忘れずに語り伝えていくこと、イエス様の教えで共に悲しんだり慰めたりできる愛の心でいつでも危機に備えられる鍛錬を続けていく必要を感じている。子どもたちが「光の子」として歩み続けることを祈りつつ…。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・いざという時に的確な判断ができるようにあかね保育所主任保育士鎌田純子さん2011年3月日午睡中。11翌日に控えた修了式の準備で職員は、慌しく午睡中の時間を過ごしていました。修了式の立て看板、椅子並べ、音響セット等、会場準備もほぼ終え、お祝いで一足先に届いた鉢花を眺めながら、翌日の修了式の話題に盛り上がっていた頃だったと思います。「グラッ」と足元が揺れ、職員同志顔を見合わせ「地震!」と叫ぶと、それぞれ担当の保育室へ走り出しました。午睡中、保育室にいた各クラスの担任は、素早く子ども達に布団をかぶせ非常口を開放していました。しかし、揺れはおさまるどころか更に大きくなり、築年の35あかね保育所は、今まで聞いた事のない音をたてて揺れていました。これはいつもの地震では