東日本大震災の記録

東日本大震災の記録 page 87/178

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東日本大震災の記録

87第4章3・11ドキュメント「あの日」様子を確認し、数分後に橋から見たのが、想像を絶する速さで覆ってきた津波。真黒い油の様なギラギラとしたものがすごい飛沫の水と共に船尾やらが橋桁にぶつかりながら流れて来るのを目の前にし、自分の方におおいかぶさって来る様でした。私は大変だと思い、すぐポンプ車置場に戻ろうとした途端道路は一面に激流に見舞われ車が数十台も流れて来て戻る事さえも出来ずただ呆然としてしまいました。町内の方達の安全を確保しようと八幡公民館を避難所に開放しました。再び消防団活動に戻ったところに町内には1・5メートル位の津波が押寄せて来ました。車と一緒に数十人の人達が流され、車の上では大声を上げ助けを求めたり、あちらこちらから悲鳴が聞こえ、大パニックでした。あの雪の舞う寒い中、電気が途絶え、暗い所を手探りしながら声をたよりに消防団員達はガレキの中をボートを漕ぎ、ケガをしている人や、又車から脱出し難を逃れた人、妊婦さんや幼児、寒さに震え水浸しになっている人そして低体温で動けなくなって意識がもうろうとしている人達を救助し公民館や自宅に避難させましたが、暖を取れなかったので低体温を心配しました。一晩中泣き叫ぶ幼い子。そして妊婦さんの体が心配でしたが、無事今年生まれて大変喜んでいます。ライフラインが途絶・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東日本大震災に東田中南自治会の対応東田中南区区長西亨さん自治会の構成:マンション8棟・747世帯1、791人・防災本部地震発生後直ちに防災本部をコミュニティーセンターに設置した。防災防犯部長が集会所の鍵を開けて役員も集まり、発電機を稼動してインチTVで災40害情報を受信する頃には多数の住民も集った。夜間は照明を点灯する事で緊急避難所となった。また携帯電話の充電サービスも自然発生的に始まって、ホールの卓球台の上にテーブルタップがならんで多くの住人が列をつくった。・炊き出し震災後2日目から「炊き出しサービス」を始めた。当地区では食料の備蓄をしないので、皆さんに米の提供を呼びかけたところ、お米をはじめ、海苔、梅干、みそ、サランラップの他、近隣飲食店からも野菜、魚肉と業務用食品卸業の篤志家からは生サーモン、ずわい蟹など高級食材も大量にいただいた。薪で焚くkgのお釜のご飯は美昧し10かったが、薪が無くなって夏祭りの木造舞台も燃やしてしまった。炊き出しは水道復旧の後3月日に終了したが、文化セン25ターと高崎中学校避難所へお握りを少々ながら届けることも出来た。・安否確認、水運びボランティア各棟各戸の戸口をたたいて安否確認する作業を、元会長の指示で集会所に集まった各棟の皆様にお願いして、快く協力をいただきほぼ全戸の安全を確認できた。特に若いお兄さん達には階15までリットル以上の水を運ん10でもらったり、水汲みなど中学・高校生のスチューデントパワーの活躍に心強いものがある。・災害時要援護者のサポート栗駒地震以来、病床や独居高齢者のケアサービスがあるが、今回は訪問介護ヘルパーなどスタッフが出動できず、その間ガス、水もなしの生活の約軒に20民生委員を中心に「台所婦人部」が自然発生して4月までの3週え、食糧や燃料の調達もままならず、連絡網さえ途絶え驚く事に、避難所には240人程の人でごったがえしていました。240人の方達が横になるスペースもなく、座ったままの姿勢で2晩過ごしました。公民館の隣には2軒続いて寺院が有り何とか人以上の方々を受け入れて70頂き、少し横になる事が出来ました。地区内の活動は民生委員、その他の方達の応援で大変助かりました。若い人達が木材の残材を集めて竈を作り、婦人防火クラブの方には炊き出しをお願いし、1人に1個のひと握りのおにぎりで生命を維持出来ました。その後は支援物資が届き助かりました。私はこの災害を通しコミュニティの大切さ、そして人の支え合う力で強くなれる事、避難所の譲り合いの大切な事を学びました。心のガレキはまだまだ撤去されないままですが、犠牲になられた方々の思いを無駄にしない様後世に言い伝える事が私達の役目と思います。この震災での皆様からあらゆるご支援を頂きまして、心より厚く御礼を申し上げます。