東日本大震災の記録

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東日本大震災の記録

91第4章3・11ドキュメント「あの日」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・東日本大震災の状況仮設住宅加納政市さんあの日、私の家族は、私たち夫婦と次男と3人家族で暮らして居りました。その外に敷地内に従業員1人が組み立てハウスに住んで居りました。いつものように朝食を食べて次男は長男に仕事を頼まれて午前7時ころ仙台市八木山現場に4tダンプで出かけました。その後従業員もwピックトラックで利府町森郷に仕事に行きました。その後私達は2人で家で休んで居りました。いつものように昼食を食べて少し昼休みをとり午後2時ころ利府町森郷の埋立処分場に行って、ブルドーザーのオペレーターをするので現場に到着して私はブルドーザーに足をかけたら急にゴーという音がしたと思ったら、今度はブルドーザーがグラグラ揺れてとても降りることが出来ないので、このままブルドーザーと共に沈んでしまうと思いました。妻は、搬入路の途中に立って居て、本当に怖かったと思います。それからすぐ家が心配になって多賀城に向かいましたが、道路はガタガタで何とか多賀城の市役所前まで来ましたが、そこから元長崎屋の方向を見たら人ごみで車で進むことは出来ませんでした。それから途中に車を止めて二人で歩いて砂押川に行って見たら八幡の方は全部水でとてもそこから行くことも出来るような状況でなかった。その時まだ何波かわからないが津波が砂押川を上って来て居りました。もしかしたら明月の方に行くことが出来るかと思い砂押川の土手を下り和食の小島さんの所まで二人で行きましたが、やっぱり駄目でした。それから体も寒くなって来たので、家のことはもうだめだと思って、利府町の長男の所に行きましたが長男の家も地震でサッシもガラスも全部壊れて居ました。電気、水道はもちろん使えない寒い所で皆でごろ寝し、なんとか一晩暮らしました。次の日食べる物も足りないし、水もないし、なんとか皆で少しずつ食事をとりました。それから2日経ってから明月地区に多賀城駅前から歩いて行きましたら、がれきで家に入ることは出来なかった。家の中を見たら家財道具はめちゃくちゃで見られなかった。事務所は全部壊れ、車庫の乗用車も壊れ夫婦二人で年間頑張って来たの45に神も仏もないと思った。それからは、その日、その日暮らしが大変でした。毎日食料探しで本当に苦労しました。でも私は多賀城に来る時、ボストンバッグ1個で雄勝町から昭和年に37来たので、裸一貫で土建業を始めたので、もう一度遣り直しをすることにしました。今では仮設住宅でお世話に成って本当に有難く思って居ります。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・「震災ふりかえり」に参加して留ヶ谷自主防災部中央東地域地域長小関富士男さん月4日から3回にわたり行わ10れた「震災ふりかえり」に参加しました。震災で困ったこと、大変だったこと、良かったことの実例がたくさん挙げられました。困ったこと、大変だったことに、参加された三地域の方は沿岸部の皆さんに比較して比較的災害の軽微な方々だったためと思いますが、飲み水や使い水がなくその確保に苦労したという人が多くいました。我が家ではたまたまリットルのミネラル36ウォーターがあったので家族6人節約しながら何とかやり過ごし、そのうち給水車も来るようになったので大変苦労したというほどではありませんでした。災害時には困るのは当たり前、そのように考えれば多少の不自由さは乗り越えられるのではないでしょうか。さらに大変困ったことの一つに挙げられていたのが、情報の不足でした。電話が通じない。ガソリンが無くて情報を集めようにも足がない。市に問い合わせても回答が返ってこない。普段隣の家との交流がないので隣がどうなっているのか分からない。何か困っている人に手助けしたいけれどどうすれば善いか分からない。被害甚大な沿岸部への対応で市役所は内陸部まで手が回らないことを後で知りました。情報に関しては「個人情報保護法」とかで何やら難しくなっていますが、隣近所との繋がり、地域社会との関わり合いが大事であると皆さんが考えていました。震災の教訓として改善されるべきことはたくさん挙げられましたがこれから確実に実践するためには、市役所と行政区がリーダーシップを取って進めることが必要です。そのような中震災復興の機運が高い現在、地域住民が意識を変え、住民一人一人が積極的に地域と関わり合い、地域に参加して防災に強い街作りをして行く事ではないかと思いました。